ゲティ3世誘拐事件の真実!大富豪ジャン・ポールゲティの孫でも身代金支払い拒否!その後の人生も悲しすぎる!

      2018/08/19

この記事の所要時間: 1224

かつて世界一の富豪と認められた石油王ジャン・ポール・ゲティ。

その桁外れの資産とともに、ドケチぶりは有名で映画「ゲティ家の身代金」でも描かれているので、今後も語り継がれていくことでしょう。

今日は、世界が認めた超大富豪ジャン・ポール・ゲティの孫、ジョン・ポール・ゲティ3世の富豪の孫に産まれたゆえの悲運な人生についてご紹介したいと思います。

マフィアに誘拐されても祖父が身代金を払わなかったために人質のゲティ3世が右耳を切られ、その耳がゲティ家に届けられた話は有名ですが、この裏にはもっと悲惨な事実があったのです。

 

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ジョン・ポール・ゲティ3世:自由奔放な少年時代

1956年11月4日、アメリカはミネソタ州のミネアポリスに生まれたジョン・ポール・ゲティ3世。

父ジャン・ポール・ゲティジュニアと母アビゲイルの間に生まれました。

長子の父はゲティ家の石油事業のイタリア支部を負かされていたために、幼少期はほとんどローマで過ごします。

1964年に両親が離婚し、2年後に父は女優でモデルのタリサ・ポールと再婚しイングランドやモロッコでの生活を始めますがゲティ3世はローマの全寮制のセント・ジョージ・イングリッシュスクールに進学しローマに残ることに。

お金はあるうえに親は身近にいないので、ナイトクラブに入り浸ったり、左翼のデモに参加したりと自由奔放な生活を送っていたようです。絵を描いたりアクセサリーのデザインをしたりとアーティスト的名要素もあり、1971年には学校の廊下にペンキを塗りたくって退学処分になってしまいました。

しかし、自由すぎる生き方は両親の影響もあるかもしれません。

当時はヒッピーという自由なライフスタイル――伝統や制度など規制の価値観にとらわれず、文明以前の自然な生活に還ることを提唱した生き方が流行していて、両親もその流れにのっている人たちだったようです。

父はゲティオイルのイタリア支部トップを名乗る身分でしたが、継母と共にドラッグやパーティーに明け暮れる日々を送っていました。

ゲティ3世が退学となった同年、継母は薬物の使用過多で死亡し、これを機に父親もイギリスに転居してドラッグ中毒の治療を始めたと言いますから、親としては子供にどうこう言える身分ではありませんわね。

 

世界を震撼させたゲティ3世誘拐事件発生

お金があるのに任せて好き勝手に生きてきた少年時代でしたが、裕福であるがゆえに大変な事件に巻き込まれることになります。

それは1973年7月10日に起こった誘拐事件でした。

7月10日の午前3時、ゲティ3世は酒に酔い、次のパーティー会場に向かう途中、ローマのファルネーゼ広場でマフィアに誘拐されてしまいました。

数人の男に口を押さえられ、車に押し込まれてイタリア南部カラブリア山中の洞穴に拘束されたゲティ3世は、母親宛に身代金1700万ドルを要求する手紙を書かされます。

愛するママ

月曜日から僕は誘拐犯に拘束されているんだ。

お願いだから息子の命を危険にさらさないでくれ。

警察には知らせないで、僕の狂言だなんて思わないで。

お願いだから誘拐犯との連絡を取り合ってくれ。

PS.身代金が遅れれば、あいつらは僕の指を切って送り届けると言ってる。

絶対に警察には通報しないで、殺されてしまうよ。

当然ながら母親は何とか助けようと焦りますが、すでに離婚した身で1700万ドルもの大金を払えるはずはありません。

そこで別れた夫、ゲティ3世の父親であるゲティジュニアに相談し、父親にも1700万ドルは支払えないために、祖父のジャン・ポール・ゲティに身代金を出してくれるよう頼みます。

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放蕩息子の狂言と考えて身代金支払い拒否

しかしジャン・ポール・ゲティは身代金の支払いを拒否。

当初は普段から放蕩生活を送っているドラ孫息子だったために、金欲しさゆえの狂言ではないかと思ったため。

それ以前からゲティ3世はドケチの祖父から金をせびるために、そんな冗談を言っていたことがあったようです。

まさに現実版「オオカミが来たぞ」であります。

1通目の手紙はジャン・ポール・ゲティはもちろん、ゲティ家の多くの家族にも鼻で笑われ、信じてもらえませんでした。

金を支払う様子がないため、ゲティ3世は2通目の手紙を書かされます。

愛するママ。

連中の要求通りにしなければ僕は殺されるよ。

たとえ誘拐犯の1人が捕まったとしても、他の人間がぼくろ殺してしまう。

彼らの言うとおり麻袋に金を詰めて、高速道路でパレルモまで届けてくれ。

でないと僕は殺されてしまうよ。

孫の無事が確認できない上に、2通目の身代金要求が届いたことで、ゲティ家の人々も「これは本当かも……」と思い始めますが、ちょうどイタリアの郵便局がストライキをしていたために、この手紙が届いた時には、すでに誘拐犯が指定した支払期限を過ぎていました。

しかし、誘拐された可能性が高まってもジャン・ポール・ゲティは断固として支払いは拒否。

 

業を煮やしてマフィアが身代金をディスカウント

期限を過ぎても身代金が支払われないことはゲティ3世にとってはもちろん、マフィアたちにとっても大きな衝撃でした。

誘拐されたとはいってもマフィアにとっては大事な金づるのゲティ3世は、それまで比較的、良好な待遇を受けていました。

設備の整わない山の洞穴でパスタをゆでるなどして1日3食を提供し、移動の途中で雨に濡れた時には誘拐犯がタオルでゲティ3世の髪を拭き、清潔な乾いた服に着替えさせ、火にあたって体を温めさせた、退屈だろうとラジオを与えたりもしていたようです。

しかし、2通の手紙に何の反応もないために犯人たちのゲティ3世に対する対応は次第に悪化していきました。

ゲティ3世は後に回想して「見張りが1人の時にはまだいいが、見張りが2人だと『脳みそを取り出して死体は川に捨ててやる』と心理的に攻撃された」と語っています。

予想外の状況に次第にいらだちを見せるマフィアたちの様子を感じながら、ゲティ3世も助かる望みを失い、「こんな日々を送るなら、いっそ死んでしまったほうが楽かも…」と考えるようになります。

しかし、当然ながらマフィアたちは諦めません。

8月16日、ゲティ3世に3通目の手紙を書くように要求します。

愛するママ

誘拐されてから、もう1か月が過ぎたよ。

待っている時間は本当に恐ろしすぎる。

身代金を払うつもりがあるの、それとも僕の死を見たいの?

僕はまだ17歳にもなっていないんだよ。

あと20日しかない。

期限を過ぎれば、もう生きて会うことはできないよ。

そしてこの時、業を煮やしたマフィアたちは1700万ドルから大幅に値下げした320万ドルの身代金を提示します。

「320万ドル支払えばゲティ3世を解放する」というのが、この時の犯人側の条件でした。

しかし、それでもヒッピーの父親には払える額ではなく、払える祖父はやっぱり断固拒否。

 

犯人グループは次第に焦りを隠せなくなってきました。

しばらくは隠れ家を転々としていましたが、10月15日、ついにゲティ家に対する要求を新聞に掲載します。

「ゲティ3世を無事に帰して欲しいなら、15日以内に身代金を全額支払え。

でなければ次には彼の髪と耳を送り、その後始末する」

世間に公にすれば、さすがに支払うだろうと思った犯人グループは甘すぎたようです。

ゲティ1世はそれでも支払いませんでした。

そこで、ついに犯人グループはゲティ3世の耳を送りつけ、より効果的な警告を与える決断をします。

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窮地脱出のため自ら耳を犠牲に

犯人グループが新聞に要求を掲載してからのことをゲティ3世は以下のように回想しています。

あの時、連中が「医薬品を用意しなければ」などと相談しているのをよく聞いていた。

でも、彼らは心底残酷なわけではないようで、「明日はやるぞ」といいつつ延期することが何度も繰り返されていた。

実際には延期が続いていても「明日はいよいよ」という思いで毎日を過ごすゲティ3世の精神的ストレスは大変なものだと思います。

それ以前に家族に彼を救う様子がまったく見られないという状況があるわけですから。

ついには自分から「これ以上待つことはない。やってくれ」と耳を切って送りつけるよう犯人グループに提案しました。

その状況から抜け出すには、それしかなかったのです。

ハンカチを噛んで右耳を板の上に置く姿勢になり、ゲティ3世は自ら耳を切られました。

「切られた瞬間は何も感じなかったが、その後、アルコールで消毒された時に初めて痛みを感じた」そうです。

マフィアたちは傷口を消毒した後、ガーゼや包帯をあて、破傷風の予防薬やペニシリンも注射してくれました。

しかし、30分ほどもすると傷口からは出血が止まらなくなり、ゲティ3世が意識不明になったため、マフィアたちは動揺して1時間に6本ものペニシリンを注射。

後にゲティ3世はペニシリンのアレルギーを持っていたことが分かっています。

しかし、止血薬を注射されると幸いにも出血は止まり命も取り留めました。

11月、犯人グループはこの耳と髪の毛の一房をゲティ家に送りつけます。

 

値切ったうえで身代金が支払われる!

 12月10日、犠牲が報われる時が来ました。

家族が身代金支払いに同意したことが犯人からゲティ3世に伝えられます。

血だらけの耳が情を動かしたのか、あるいは世論の圧力に耐えかねたのかは分かりません。

ついにジョン・ポール・ゲティが身代金の支払いに同意しました。

しかし、ここでも言い値では払わずディスカウントを要求し、犯人グループも290万ドルの身代金で手を打ったようです。

さらに、1世が支払いに同意したのは所得から控除できる220万ドルのみ。

残りは父親であるジョン・ポール・ゲティ・ジュニアに支払うよう要求しましたが、彼には残りの額を支払う能力すらありませんでした。

そこで、1世は4パーセントの利子で息子に70万ドルを融資し、やっと290万ドル全額が支払われたということです。

身代金は支払われた直後の1973年12月15日、誘拐されてから、ほぼ5か月後にゲティ3世はやっと解放されました。

犯人グループにとっても長い5か月だったことでしょう。

 

払えるのに払わない理由は

 後にメディアに語ったところによれば、

「私には孫が14人いる。今回、1ペニーでも身代金を支払えば、他の孫も次々と誘拐されるだろう」

というのが、支払いを拒否した理由だそうで。

ごもっともな理由ではありますが、家族の命の危機にそんな国家みたいなことを平然と言ってのける冷血漢ぶりに世界は震撼しました。

確かに1700万ドルと言えば、とんでもない大金です。

拒絶も何も一般家庭だったら払いたくても払える額ではありません。

しかし、そこは世界一の富豪と言われたジャン・ポール・ゲティですから。

犯人も払えなくはない額を要求しています。

事件が起きた1973年当時、世界はオイルショックで石油価格が暴騰していた頃で、ジャン・ポール・ゲティは1日に1700万ドル以上の利益を得ていました。

もちろん「一度支払えば味を占める」は正論ですが、1世にとって1700万ドルは全然腹の痛まない額だと思われるわけです。

血がつながっているとはいえ、放蕩息子と放蕩孫息子に対して、愛想を尽かしていた部分はあるかもしれません。

 

その後のゲティ3世は?

 1974年、ゲティ3世は誘拐以前からの知り合いだったドイツ人のジゼラ・マルティン・ツァハーと結婚。

翌年には息子のバルサザールが生まれています。

17歳という若さで結婚したのは、事件での家族に対する不信感から自分自身の家族を持ちたいという考えだったのかもしれません。

1977年には切り落とされた耳の再生手術を受け、仕事は脇役で映画に出演したりもしていたようですが、仕事も家庭も彼の精神を救うことはできなかったようです。

1981年、ジアゼパムとメサドンのカクテルを飲んで肝不全と脳梗塞を起こします。

命は助かったものの、頸椎損傷と視力のほとんどを失い、その後はほとんど車椅子の上での生活を余儀なくされ、死ぬまで実の母親が彼の世話をすることになります。

しかし母親にとってゲティ3世の医療費は払いきれる額ではありませんでした。

ゲティジュニアは1世の遺産を受け継ぐことはできなかったものの、祖母が孫たちのために建てた40億ドルの信託基金によって優雅に暮らしていました。

そこでゲティ3世は父親を相手取って、毎月2万8000ドルの医療費を要求する裁判を起こします。

しかし医療費は勝ち取ったものの、彼が健康体に戻ることは生涯ありませんでした。

2011年2月5日、イングランドのバッキンガムシャー、ワームズリーで長い闘病生活の末に54歳で亡くなっています。

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写真を見る限り、若い頃のゲティ3世は、いかにもお金持ちのお坊ちゃんっぽいですが、甘いマスクでなかなかハンサムくんです。

俳優の仕事もしていたというので、1つ違っていたらスターになっていたかもしれません。

あの事件がなかったら……は考えてもしかたがないことですが、あの事件が彼の精神にどれほどの傷を遺したかは計り知れません。

人間というのは、ふと合った目をそらされただけでも傷つく生き物だそうですが、自分の命がまな板の上に乗っている状況で

「ビタ一文払いません!」

と血のつながった家族にきっぱり言われたら、そりゃ人間不信になりますよ。

自分から「耳を切れ」と言い出した心情を思うと泣けてきますわ。

ジョン・ポール・ゲティはドケチといっても、まったく金を使わないストイックなタイプではなく、整形手術をしたり、美術には惜しみなく金をつぎ込んだりと自分の欲望には正直な人だったようです。

何だか、どっと暗くなるようなお話でした。

おわり。

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