源義経は北海道から大陸モンゴルに渡りチンギス・ハンになった?奥州平泉で死んだのは嘘の根拠は?

      2017/06/03

この記事の所要時間: 951

幼名牛若丸で有名な源義経。

朝敵として兄・頼朝ににらまれ、最期は自害

して果てた悲劇のプリンスです。

稚児姿の美少年として知られていますね。

平安末期から鎌倉時代にかけての武将という

非常に日本的な人物ですが、なんと源義経は

チンギス・ハン(ジンギス・カン)だという

説があります。

「そんな、バカな」と思いますが、それなり

に説得力のある理由もあるようで、今日はチ

ンギス・ハン=義経伝説についてを調べてみ

たいと思います。

 

スポンサーリンク

日本史における源義経の最期は?

悲劇の最期が有名な源義経ですが、実際には

22歳までの記録は文献にもないそうで、よく

分からない人物のようです。

子供の頃、鞍馬山に預けられていたという話

は芝居やドラマで有名ですが、歴史的なウラ

がある話ではない模様。

治承4年(1180年)10月21日、22歳の時、

頼朝と会って兄弟の名乗りを交わしたのが、

文献に登場する最初。

その後、3年間はまた何をしていたのか不明。

25歳の時、木曽義仲討伐で京に向かったのを

皮切りに27歳までは武将として平氏との戦

いで大活躍。

しかし、凱旋後は頼朝と対立し、追われる身

となって奥州平泉へ。

奥州の藤原秀衡は義経を擁立して鎌倉に対抗

しようと考えていたが病死、息子の藤原泰衡

に義経を支援するよう言い残したものの、泰

衡は結局、頼朝に寝返って義経を攻め、義経

は堂に籠もり自害。

享年31歳でした。

その後、義経の首は酒に浸して43日かけて

鎌倉に運ばれ、腰越の浦で首実検が行われた

とされています。

 

スポンサーリンク


どうやってモンゴルに渡ったのか?

奥州で亡くなったのが1189年4月の30日、

首実検は6月13日。

初夏に入る時期なので、酒に浸したとしても

日本酒程度の度数で常温では、かなり腐敗が

進むと考えられます。

鎌倉まで43日もかかったのは、実は泰衡が

寝返ったと見せかけて、義経を逃がし、時間

稼ぎと首実検を困難にするための計略で、鎌

倉に差し出された首は身代わりの首という説

もあります。

わざと腐敗を進ませて本人確認をしづらくし

たというわけですね。

そうして生き延びた義経が今の北海道、蝦夷

に渡り、そこからさらに陸に渡ったと。

このことは江戸時代の儒学者・林羅山が「本

朝通鑑」に「義経が自害せず蝦夷に渡って子

を残した、と世間では言われている」と書い

ていますが、あくまで噂話の域を出ません。

しかし、蝦夷に渡ること自体は「奥州合戦で

敗れた泰衡の手下が蝦夷に逃れた」と文献に

もあるので、生きていたなら可能性は大。

北海道には身代わりの墓などもあり、ここ

まではそれほど突飛な話とも思えません。

さらに鎌倉期にはすでに満州以北のツングー

スなど少数民族とも交流があり、大陸に渡る

こと自体も、あり得ない話ではない。

ただチンギス・ハンとなるとね。

言葉の問題とかね。

身代わりの根拠に関してはこちらの動画が分か

りやすいです。

 

スポンサーリンク


チンギス・ハン(成思汗)とは?

 ジンギス・カンと聞いて羊の焼き肉を思う人

は多いと思いますが、その語源となった人物

こそが、遊牧民族らを統一しモンゴル帝国を

築いた初代皇帝チンギス・ハンであります。

ハーン(ハン・カン)というのはモンゴル語

で君主・王のこと。

つまり「チンギス皇帝」というような呼称で

本名はテムジンと言います。

1162年5月31日、父・イエスゲイ・バートル

と母・ホエルン・ワデンの間に誕生、1227年

8月25日没。

在位期間は1206年から1227年とされています。

 

チンギス・ハン=源義経説に根拠はあるのか

テムジンがハーンになったのが1206年と、日

本での義経の最期から17年後。

31歳から17年後で48歳。

「人生50年」の時代からすると遅咲きではあ

りますが、同時代人とは言えるでしょう。

日本での恨みの反動で大陸でブイブイ言わせた

ということもなくはないかも。

それに日本では武将でならしていたから、馬に

は乗れますしね。

この説にはそれなりに根拠があってこれまで

何人もの人がこの説に魅せられ、検証してい

ます。

 

そもそもチンギス・ハン=源義経説を日本で公

に主張したのはニッポニアニッポンでおなじみ

のシーボルトだそうで。

彼は日本滞在中に通訳の吉雄忠次郎からこの説

を聞き、伝承や先人の研究を検証したうえで、

この説を支持したそう。

 

明治時代になるとケンブリッジ大学で学んだ外

交官末松謙澄が卒業論文にチンギス・ハン=源

義経説をまとめました。

これは後に和訳され『義経再興記』として出版

されています。

 

また大正期になると小谷部全一郎氏が『成吉思

汗ハ源義經也』を出版。

小谷部氏はアイヌ問題に取り組むうちに義経北

行説に興味を持ち、その後満州に通訳官として

赴任したのを期に、現地を取材した成果を著書

にまとめました。

非常に「ムー」的なネタですが、インテリゲンチャが

けっこう大真面目に研究を重ねてきたわけです。

 

スポンサーリンク


チンギス・ハン=源義経の根拠とは?

 さて、こうした先人の研究でチンギス・ハン=

源義経とする根拠がいろいろあげられているの

で、そのうちのいくつかをご紹介しましょう。

 

発音が似ている

 源義経を漢音読みすると「ゲンキケイ」ですが

これが「チンギス・ハン」と似ているという説。

……いや、無理があるんではないでしょうか。

 

家紋と徽章がよく似ている

源義経が使用していた笹竜胆の家紋とモンゴル

帝国の徽章がよく似ているという説。

さっそく、見てみましょう。

こちらは、おなじみ○に笹竜胆の源氏の家紋。

そしてこちらはモンゴルの徽章。

「九斿白纛」あるいは「九纛」「九足八旗」とも

呼ばれています。

いや……似てないんじゃないかなぁ。

少なくともコンペに出しても盗作とは思われ

ないレベルかと。

 

国号の元は源から来ている

モンゴル帝国がクビライの代になって国号を

元に改めたのは祖国日本の「源」へのオマー

ジュだという説。

どちらも発音が「げん」打という主張ですが、

そんなんだったら、そのまま「源」でいいんじゃ

ないでしょうか。

それに「元」は『易経』の「大哉乾元」から

とったというのが大陸での定説。

「始まり」とか「大きい」という意味を持つ

文字なので国号にはふさわしいですが、その

裏に音で「源」をかけていると言われても、

あまり説得力がないような。

 

元寇は日本に対する復讐のため

中国史上、日本に侵攻してきたのは後にも先

にも元朝のみなわけですが、これは偉大なる

太祖チンギス・ハンの敵である日本の鎌倉幕

府に対する復讐だったという説。

これはなかなか心動かされる説ではあります。

しかし、クビライが当初日本に送った奉書の

内容はざっくりいうと、

「臣下にしてやるから仲良くしようぜ。でな

いと武力行使だよん」

というもの。

当時は敵討ちは正義の時代ですから、そうい

う大義名分があるなら、前面に打ち出しそう

に思うんですよね。

 

チンギス・ハンは長い弓を使った

 騎馬民族であるモンゴルではもともと馬上で

扱いやすい軽便な短い弓を使用していました

が、チンギス・ハンは長弓を使用したそうで

これは日本の和弓を使っていた義経だからこ

その導入だとする説。

これも説得力がありそうですが、より威力を

求めたためか、あるいは大きな武器は力の象

徴でもあり、豪傑が大きなあるいは長い、重

い武器を使うのと同じ発想といえないことも

ないような。

 

他にもいろいろな説がありますが、どれも決

め手となる説得力に欠けるきらいがあります。

 

大陸侵略の大義に利用?

 歴史ミステリー好きにはなかなか興味深い話

ではあるのですが、この説が日本の大陸進出

の大義名分として利用されたという説もあり

ます。

前述の小谷部氏はたぶん純粋な興味で研究を

重ねていたのだと思いますが、当時、日本政

府の満蒙進出にとって蒙古帝国・清王朝が日

本の子孫であるというのは渡りに船なおいし

い話。

侵略どころか、そもそもルーツは日本人なの

だからと満蒙開拓に大義ができるわけです。

実際に軍部が小谷部氏の書籍を多数買い上げ

て各部署に配布していたという話もあるよう

です。

そういう思惑に利用されたというのは、ちょ

っと残念な話ですね。

でも、そこまで知られていないところを見る

とやはり、あまり信憑性がないために大義と

しても説得力もなかったのでしょう。

しかし、説得力は今ひとつと思うのは私の個

人的な感想です。

実際には、もっと細かい検証もありますので、

興味を持たれた方は、さらに掘り下げてみる

のも一興かと。

現在、同説に関しての書籍には以下のような

物がありました。
義経伝説をつくった男―義経ジンギスカン説を唱えた奇骨の人・小谷部全一郎伝

成吉思汗=源義経だったこれだけの理由

義経はジンギスカンになった! その6つの根拠

義経北行伝説 ー義経はジンギスカンになったか


 

日本人にとっては悲劇の英雄が大陸に渡り、

東は中国・朝鮮から西は東ヨーロッパまで広

がる空前の大帝国の基盤を作ったとなれば、

それはちょっとワクワクするような話です

が、信憑性という点からすると、やはりチ

ンギス・ハンはモンゴル人じゃないの、と

思ってしまいます。

しかし、蝦夷まで逃げたというのはかなり

有力な説のよう。

しかし、今後決定的な歴史的証拠が見つか

る日が来るかもしれません。

しかし、中国ではよく「モンゴル人やウィ

グル人は生まれてから一生に三度しか風呂

に入らない」と言われていて、もし義経が

チンギス・ハンなら日本のプリンスに厳し

い生活だったかもなぁ、などと思ったりも。

いやいや、興味深い話でした。

秦の始皇帝はなぜ万里の長城を作ったのか?頂点を極めた統治者ゆえの懸念が理由か?

 - 歴史