フェルメールが「デルフトの眺望」を描いた場所!フェルメールブルーとは?

      2016/05/21

デルフトの眺望_フェルメール
この記事の所要時間: 727

フェルメールの代表作と言われる

『デルフトの眺望』

わりと地味目の風景画の佳作という印象

でしたが(節穴)、見る人が見れば心を

揺さぶるような超傑作のようです。

節穴審美眼を脱却すべく『デルフトの眺望』

やフェルメールについて、名作が描かれた

場所やフェルメールが愛用したという

フェルメール・ブルーについて、ちょっと

お勉強してみました。

 

スポンサーリンク

フェルメール:プロフィール

  ヨハネス・フェルメール

氏名:ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer )

本名:ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)

生年月日:1632年10月31日?

没年月日:1675年12月15日?

 

バロック期を代表するフランドル派の画家。

生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごしました。

初期は物語画と呼ばれる宗教や神話などを背景

に持つ絵を描いていましたが、やがて日常的な

光景を描いた風俗画へ転向。

リアルな写実のように見えて遠近法を巧みに

誇張した空間構成、光と影による緊密な質感

が作品の特徴。

 

フェルメールの本名は?

 

フェルメールはヨハネス・フェルメール

名乗っていましたが本名はヤン・ファン・

デル・メール・ファン・デルフト

デルフトのヤン・ファン・デル・メールという

意味で当時存在した同姓同名の人物と区別

するために付け加えられたもの。

父のレイニエル・ヤンスゾーン・フォスは

姓をフォスからファン・デル・メールに改名。

フェルメールは父の姓を受け継いでいますが

「フェルメール」と短縮した呼称を使用して

いました。

父の改名理由も、「ファン・デル・メール」を

「フェルメール」と呼んだ理由も謎!

 

フェルメールは誰に絵を習ったか?

 

彼が誰に師事したか、事実関係は証明されて

いませんがカレル・ファブリティウスという説

もあります。

カレル・ファブリティウスはレンブラントの

弟子の中で一番有望株の若き画家で1654年に

起きた弾薬庫の爆発事故で命を落としています。

この際、友人で印刷商だったアーノルド・ヴァン

がファブリティウスを悼んでソネットを詠んだ。

内容はざっくり以下のようなもの。

「哀しいかな、フェニックスは猛火の中涅槃に向かった。

天に還ったファブリティウスは今栄光の頂点にいる。

幸いにもフェルメールが彼の足跡を追って前進する。

灰となった屍から舞い上がった新たなフェニックスが軽やかに高く舞い踊る」

と詩の中にはフェルメールの名がありました。

フェルメールがファブリティウスの後継者的

存在であるかのような、この詩の存在や、

作品にファブリティウスの影響が見られる

ことからも、ファブリティウスが師である

とみる説です。

いろいろ謎が多い人ですね。

謎解き フェルメール (とんぼの本)

 

フェルメール・ブルーとは?

 

フェルメールが生涯に残した作品は30数点と

ごく少なく、その中で特に青にこだわった

画家で彼が使った絵具は「フェルメール・ブルー」

と呼ばれています。

 

貴重な鉱石ラピスラズリを原料とする絵具で、

ラピスラズリはアフガニスタンのみでしか

産出しません。

日本では仏教の七宝の1つ瑠璃として知られて

います。

美しい青を瑠璃色というのはラピスラズリの

色のことだったんですね。

 

17世紀には金と同等かそれ以上の価格で

取引されていた超高級品でした。

古代ローマの博物学者プリニウスがラピス

ラズリを「星のきらめく天空の破片」と表現

したことから「天空の破片」と呼ばれた鉱石。

これを原料とする顔料はアフガニスタンから

ヨーロッパへ海路で運ばれたことから

「海を越えて来る青」という意味で「ウルトラ

マリン」と呼ばれました。

 

そんな高価なラピスラズリが原料ですから

絵具の価格も当然高い。

当時、フェルメール・ブルーの絵具は普通の

青い絵の具の100倍の価格だったそうです。

一般の画家はここぞという時しか使わない

というより、使えない高級絵具だったにも

関わらず、フェルメールは生涯30数点の

作品のうち24点の作品でフェルメール・

ブルーを使っています。

 

フェルメール・ブルーを贅沢に使えた理由は?

 

フェルメールは1653年にカタリーナ・

ボルネスという女性と結婚していますが

彼女の母親はとても裕福でした。

当初はフェルメールがプロテスタントで

カタリーナはカトリックであったこと、

フェルメールの父に借金があったことなど

から結婚を反対されましたが、結婚して

からは一家でカタリーナの実家に身を寄せる

など、その心情は分かりませんが実質的に

支援していたと言えます。

またフェルメールは父の死後、家業のパブ

と宿屋を継いで、これも収入源となって

いました。

さらに1957年には醸造業者で投資家の

ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライ

フェンというパトロンを獲得し生涯に

渡って彼の援助を得ていました。

 

作品数も少ないうえに、子だくさんだった

フェルメールが高級絵の具をふんだんに

使えたのは、絵以外の資金源があったからの

ようです。

 

デルフトの眺望

 

フェルメールの作品の中でも名作の誉れ高く

代表作とされる『デルフトの眺望』。

1659年に描かれたもので大きさは

117.5×98,5cm。

マウリッツハイツ美術館が所蔵しています。

 

デルフトの町を市の南端にあるスヒー川の

対岸から見た光景を描いた作品。

左奥に旧教会の塔、手前にスキーダム門、

右にロッテルダム門、奥にある赤い屋根の

建物は現在の武器博物館、その右には

新教会の塔が朝日に照らされています。

スキーダム門の時計から朝7時過ぎの光景

であることが分かります。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』

の中で作家ベルゴッドは『デルフトの眺望』

を見るためにオランダ美術展に出かけていき、

「こんなふうに描くべきだった。

この黄色い小さな壁面のように、絵具を

何度も塗り重ねて、文自体を高貴なものに

すべきだった」

と言って息絶える場面が書かれていること

でも有名な作品。

 

プルースト自身、1902年にこの作品を見て

いて、知人に宛てた手紙で、

「ハーグで『デルフト眺望』を見てから

というもの、この世で最も美しい絵画を見た、

と思ってきました」

と書いていることからも、大きな影響を受けた

作品だったのでしょう。

 

『デルフトの眺望』はどこで描かれたか?

デルフト駅から線路沿いに南へしばらく行き
スヒー川に出たら、少し東へ。

『デルフトの眺望』が描かれたのはフェル

メールにとって生まれ育ったデルフトの

お気に入りの場所だったようです。

作品を見るとリアルな写生のように見えますが

実際には人物の大きさや対岸の奥行き感など

事実とは異なります。

フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)

きれいな絵です個人的には落ち着いた印象の

佳作というイメージの『デルフトの眺望』。

しかし、同じような印象を持ちながら

原作を生で見て衝撃を受けたという人が

多いのも興味深いです。

一度は生で見てみたいもの。

そしてこの作品を描いた場所にも行って

みたいですね。

伊藤若冲展覧会2016!チケットや混雑~グッズや書籍情報も!

葛飾応為の浮世絵作品リストと収蔵美術館!画集や関連本情報も

ハワード・リーのハイパーリアリズム絵画作品の値段と購入方法!

 - アート